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TVアニメ「遊星仮面」の原作と全39話の脚本を担当された足立明(本名 足立昭)氏について記したページです。
氏が手がけられた全TVアニメ作品については、【参考資料】ページのこちらをお読みください。サイト内の全関連情報へのアクセス方法についても説明しています。
下記の項目をクリックすると、このページ内の説明箇所に移動します。
「遊星仮面」についてご存じない方は、まずは【遊星仮面 てどんな作品?】ページをお読みください。
下記については別ページに記述があります。クリックすると該当ページに移ります。
TVアニメ「遊星仮面」の原作と全39話の脚本を担当された足立明(本名 足立昭)氏は、2012年1月6日、75歳でご逝去されました。
その死を悼み、さらに氏の功績を後世に伝えたく、このページを常設ページに加えることにしました。
氏が手がけられたTVアニメ作品のうち最も重要なのは、「遊星仮面」と「妖怪人間ベム」です。
どちらも原作と全話脚本に関わられました。
特に「ベム」は、時代を越え世代を越えて熱烈なファンが多い作品です。にもかかわらず、さまざまな理由で、氏の名前が一般の方々にまで知られることはほとんどありませんでした。
それが、2011年「ベム」の実写ドラマ版放映を機に、少しずつ一般の方々にも知られるようになっていったようです。
ご逝去のさいには、一部メディアでニュースとして報道され、たいへん皮肉なことですが、そのことで一挙に大勢の方々がそのお名前と業績を知ることとなりました。
亡くなられてからその名が知られるというのは、あまりにも……。
残された者にできることといえば、氏の功績を発掘し、後世に伝えることしかありません。
「ベム」には新しいファンも増え続けているだけに、これからも数多くの情報が発掘されていくことが期待されます。
また足立氏には、アニメ作品以外にも、主催しておられたぬいぐるみ人形劇団「劇団ピッカリ座」での数多くの上演作品があり、それ以外にもさまざまな作品を手がけておられるようです。いまだ知られていない作品が、これからも発掘されていくことが期待されます。
生きてお会いすることができなかっただけに、私としてはせめて、新たに発掘される作品や、新たな「ベム」情報などについて、ツイッターやこのページを使って、皆様に紹介させていただこうと思っています。
ここでは「遊星仮面」について語ります。「ベム」については、1968年版(第1作)と2006年版、実写ドラマ版、どれも私は見ていますが、ここではほとんど触れません。
とはいえ、アニメ「遊星仮面」も「ベム」同様、足立ワールドのひとつです。
「遊星仮面」における氏の功績を理解することが、しいては「ベム」の理解にもつながるということを、ご理解ください。
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私は一度だけ、足立氏からお手紙をいただいたことがあります。1987年のことです。
不注意にもオリジナルは紛失してしまいましたが、その大部分――遊星仮面のことに言及した部分――は書き写していました。
【更新記録(あとがき)】ページの2008年4月27日の記述に、すでにその一部を書いていますが、ここでは全文を公開します。
この作品は、混血の少年が対戦国の血をひいている というだけで差別迫害される というお話です。それに加えて少年が、拉致された母親の救出に必死になる冒険の物語でもあります。
ところが、この様な地味な設定では視聴率はかせげないので「スーパーマン」にして欲しい とスポンサーからの要望があり、その通りのフォーマットをつくったものです。したがって、マントにしろマスクにしろ、変身の道具もありきたりの設定にしました。
ご要望の設定を生かした上で、作者のモチーフをどう入れるか……が苦労したところです。私の設定(原作)では、ピーターのお父さんは地球軍の将校であり、ピネロン星との戦いの前線基地にいることになっています。ピーターはふくれ上がっていく戦争の大きな鉄の玉と、それをどう止めていいのかわからない人達、動き出した鉄の玉とその上に乗って必死に落ちまいとしている人達、鉄の玉につぶされつきとばされた人達、なんとか動きを止めようとしている人達……を傍観しながら、その流れの中に入っていくのです。
原作では、母の救出のための冒険がエキサイティングに展開されるものです。もっともっとSFっぽくリアルで文芸作品です。
派手ではないが とにかくおもしろくスリリングな作品を書いてやる……といきごんでいましたが、スポンサーとプロデューサーに押しきられました。
当時はまだTVアニメが、子供にウケてなんぼ、関連商品が売れてなんぼ、でしかなかった時代。
意欲的なクリエイターにとっては、なにかとつらい時代だったことでしょう。悔しさがにじみ出ておられます。
番組を仕切る側は、子供にわかりやすくて単純なスーパーマン(遊星仮面)を描いてほしかった。単純な善(地球軍)と悪(ピネロン軍)の話を書いてほしかった。ですが足立氏は、善と悪ではなくそれらに巻き込まれる人々の群像を、ピーターをめぐるリアルで複雑な話を、描きたかったのです。
足立氏のこうした意向はかなり強かったとみえ、上からだいぶ押し切られた頃につくられたと思われる設定資料にも、まだまだ色濃く残されているようです。
ただ、こうした外からの圧力や内なる葛藤は、残念なことに、作品の中身にまでその影を引きずらせてしまうことになったようです。
例えば、以下のように:
遊星仮面に関わるメインストーリー(善と悪との戦い)の中に、場合によってはそれとは全く関係しない深刻なエピソード(ピーターの場合は差別や迫害・苦悩など)が挿入されているなど、2重構造になっているお話が多い。
主人公にとっての敵も2重構造。
遊星仮面の時にはホイヘンス と イモシ(どちらも悪の元締め)。ピーターの時にはキニスキー(迫害者)。
物語に、詰めの甘さや矛盾、ちぐはぐ感が多いこと。
最終回近くで路線変更された痕跡があること。
このうち、キャラクターとストーリーの2重構造は、残念ながら放映当時の子供たちを混乱させてしまったようです。
記憶に残る内容が、人によって大きく異なっているのです。
「かわいそうだった」「差別があった」など、重く深刻な内容だったとの記憶を語る人がいる一方で、ありきたりで単純で薄っぺらい作品 といった記憶しかない人もいます。
はっきり言って、ヒーロー遊星仮面の記憶しかなければ、後者の印象しか残らないでしょう。
あるいは、ピーターをめぐる話が、子供には難しすぎたのか……。
どちらにせよ、送り手側も受け手側もまだまだ成熟していなかった時代。足立氏が描きたかった世界を描くには、時代があまりに早すぎたことだけは、たしかです。
【皆様からの作品批評/テーマと全体像について】ページの各所でも、そうした意見が述べられています。
それでも、氏はよくがんばられました。
物語が進むにつれ、ご自身の色を濃くしていかれたようです。
作画や演出のスタッフの方々などの力もあったのでしょう、1クール目、2クール目、3クールと進むにつれ、奥深く重厚な話が増えていきます。(こちらにも、そうした一言感想が述べられています。)
そして、TVアニメ史上特筆すべき最終3部作+その前の1話(36話、 37話、 38話、 39話)へと、盛り上がるのです。
圧力や制約が多すぎた時代に、結果として後世に影響を与えるだけのお仕事をなさったことだけは、たしかです。
長浜忠夫氏や富野由悠季氏の作品世界に通じるものがあると感じています。まさに時代の先取りをしていたのです。
それだけに、再放送がほとんどなされなかったことは、本当に悔やまれます。
具体的には、「遊星仮面」の作品世界の特徴と、その早すぎた功績 項目をお読みください。
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関係者の証言といっても、現在のところ、おふた方からしかとっていません。(私は関西在住ですし、人づきあいの活発な人間ではないもので。)
楠氏は、脚本や設定をもとに漫画を描かれましたが、アニメに関しては、キャラクターデザインやメカニックデザインや原画以外では、ほとんど関わっておられないとのこと。(アニメもほとんど見ておられなかったと。なので漫画とアニメとはほぼ別モノだとお考えください。)
ですが、公式に名前が出ている原作者・仁田信夫が足立明氏であることだけは、はっきりと断言されました。
そのため、このサイトでは、原作者を足立氏としてはっきり明記することができたのです。
ただ、足立氏とは当時ですらあまり付き合いはなかったということなので、それ以外の具体的証言は以下の2つだけです。
当時から見ても「科学的にどうなの?」と首を傾げてしまう、オープン形式のライダー(宇宙空間をなんの覆いもなく飛ぶ単座ロケット)。
足立氏のご指示だったとか。
それまでの楠氏のメカデザインでは、そのようなタイプは見たことがなかったためたずねると、そういうお答えでした。
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私は、以下の4つをあげさせていただきます。
1.人種差別や軍の横暴など、深刻な人権侵害を物語のテーマにすえたこと
2.ストーリーとキャラに一貫性があり、伏線が効果的に張られていること
3.俯瞰的視野の導入によって、大河ドラマ的TVアニメの始点になったこと
4.無力な個人、結論のない残酷な現実が、物語の最後まで描きぬかれたこと
うち、足立氏の功績として特に特筆すべきもの、後世に与えたかもしれない影響として大きかったのは、私としては 3.4.だと思っていますが、その前に具体的にそれぞれを説明します。
【遊星仮面 てどんな作品?】というページでも、他あらゆるところでも紹介しているとおり、この作品の最大の特徴です。
ただ、こうした人権侵害を描いたのは、なにもこの作品が初めてではありません。
日本最初のTVアニメ「鉄腕アトム」にも、一貫してそういう色合いがありますから。人間はロボットたちに差別意識を持ちがちで、メインキャラにも田鷲警部のような、アトムにすら常に疑いをもつ人間も出てきます。
具体的に人種差別や迫害を髣髴とさせるお話も、多いです。
(「ブラックルックス」や「青騎士」など。富野由悠季氏が監督された「青騎士」では、裸にされたロボットたちが強制収容所に詰め込まれるという、ホロコーストを彷彿とさせる苛烈なシーンも描かれています。)
また、主人公に向けられた差別や迫害に限れば、話数が多いせいもありますが、同時期放映のTVアニメ「宇宙少年ソラン」での方がはるかに多くの場面で描かれています。
(くわしくは、当サイトの付録【「宇宙少年ソラン」について】ページより、こちらをご覧ください。)
それらと「遊星仮面」との違いは、やはりテーマとしてシリーズ全体、全面的に押し出されているかどうかの違いでしょう。
敵星人となるピネロン人は、両方のこめかみにピネロン・マークがあるだけで、あとは地球人とほとんど変わりません。当時よく描かれていた超人的宇宙人ではなく、地球人と全く同じレベルの人類です。
それだけに、彼らが受ける差別や迫害の理不尽さは、皮膚感覚で伝わってきます。
「遊星仮面」では、差別や迫害のシーンが、たとえ描かれている量が少なくとも、質は非常に広域で深刻で苛烈なのです。
主人項側に、主人公の敵がメインキャラクターとして控えている点も、当時としては画期的でしょう。
それは、アトムの田鷲警部や「宇宙エース」に出てくるパチンコ博士どころではありません。主人公ピーターから 母親を奪い、さらにはピーターを殺すことすらいとわないキニスキーなのです。
軍の描写にも、特筆すべきものがあります。
ただこの作品、決して反戦アニメではありません。軍の活躍を鼓舞したり、戦闘シーンをリアルに描こうとの意欲(たとえば27話など)も、そこかしこに見られます。
それと同時に、地球軍の横暴も描いているのです。
1話の最後では、混乱をおさめるために、同じ地球人の一般民衆にまで銃を放とうとします。9話では、子供たちの乗った列車に軍需列車を連結させ、彼らを危機に陥れてしまいます。31話では、逃亡ピネロン兵を捕まえるために、人質の子供をも射殺しようとします。
ピネロン人への差別や迫害にいたっては、もっと苛烈です。2話では、母親から無理やり乳飲み子を取り上げ、引き離してしまいます。15話では、まるで家畜か犯罪者のように扱い、捕虜収容所へと移送します。16話ではいわゆる“ピネロン人狩り”が行われ、29話では、捕虜収容所で強制労働をさせ、同胞を殺すための武器を作らせているシーンが描かれています。
ハーフの子供への迫害シーンもきつい…(20話)。
よくぞこの時代に、ここまで描いたと思います。
というか、1960年代から70年代のアニメや特撮作品には、子供向けにつくられながらも内容は全く子供向きではない作品がじつは数多くあって、「遊星仮面」もそうしたもののひとつと言えます。それも、かなり早い時期に世に出されたものとして注目されるべき作品なのです。
はっきり言って、現在でもなかなかここまでのシーンは描けないと思います。
ストーリーとキャラに一貫性があるのは、ごく当たり前。というかなければ困るのですが、TVアニメ創成期の、特にSF作品においてはそうでもなかった。
1つの作品に複数の脚本担当者。その間の連絡がうまくいっていなかったのか、統一性に欠け、どこか一貫していない作品が多かったことはたしかです。
遊星仮面の場合は、脚本担当が足立氏おひとりですから、そういう矛盾は起きにくかったでしょう。
ただこれも、なにも遊星仮面が突出していたわけではありません。その頃(1966年頃)には、だいぶ制作側の体制が整ってきたようで、同時期放映の「レインボー戦隊ロビン」など、複数の脚本担当者がいながらも、しっかりと一貫性のある傑作に仕上がっています。
(ロビンについての詳細は、ファンサイトをご参照ください。URLは当サイト【リンク】ページ内のこちらから。)
遊星仮面において特筆すべきは、伏線の張られ方なのです。これは今の目で見ても、見事です。
物語最大の謎(1話での大爆発事故)が、最終3部作の途中(38話)で解明される一貫した構造。謎解きに貢献することになるロボット・アトランタは、物語の一番最初に登場しています。
最終3部作でのイモシ VS ホイヘンスの伏線は、34話から張られています。
キャラクターの扱いにしても、逆説的な伏線が張られていたかのように、効果的です。
37話ではっきりと発覚するイモシの裏切り、39話でのイモシとホイヘンスとの内紛からくる戦争終結の衝撃は、それまでずっと彼らが一緒で、イモシがホイヘンスにかしずいていたからこそ強烈に感じるもの。
キニスキーの死を描いた36話での感動は、彼がピーターをずっと迫害し続けてきたからこそ、より強烈に感じるものなのです。
なにより、第1話の冒頭シーンと最終39話のラストシーン。どちらも広大な宇宙を行くロケットが描かれていますが、前者を操縦するのは父(ロバート)で、後者は息子(ピーター)です。
父と同じパイロットの道を選んだ息子の姿を描くことで、この物語が父から息子へ引き継がれる話だというメッセージが、明確に表されています。
ギャクキャラ2人は、多くはストーリーとは関係ないところで動くことから、私自身は「いらないな、こいつらは」と思い続けていましたが……最終39話の最後の最後でその存在意義がクローズアップされるのです。見ていて、なるほどこれはうまい と、思わず手を打ってしまいました。
私が最も足立氏の功績として評価している点のひとつです。
物語が、主人公から描かれていないのです。主人公も他の登場人物たちと同じく、物語世界のコマのひとつにすぎないのです。
物語を語る目は、はるか遠くにあり、流れを見つめています。まさに足立氏のお手紙に書かれているとおりに。
俯瞰的視野。それを、不完全ながらも効果的に導入できた作品だと、私は見ています。
不完全 というのは、遊星仮面の超人的活躍部分だけは別ですから。別次元で描かれていますから。
ホイヘンス と イモシを加えたこの善悪構造部分だけは、スポンサーやプロデューサーの意向には逆らえなかったのでしょう。
それでも回が進むにつれ、徐々に彼らも物語世界の中に取り込まれていくことになります。
最終話まで見て、振り返って全話通じて感じるのは、それなりに大河ドラマとしての体裁をなしていること。
各話ほぼ1話完結型とはいえ、しっかりとした大きな流れの上に乗っかっている。
その流れの中で、個人がうごめいている。主人公(ピーター)もそのひとり。
張られたさまざまな伏線が、流れを顕在化させています。
こうした傾向の作品は、TVアニメ作品としては最初のものだと、私は断言します。
その分、各登場人物の印象は薄くなってしまっていますけど。特に主人公(ピーター)が。
登場人物たちのほとんどは、突き放されたように、善悪でははかれないものとして描かれています。
たとえばピーターは、遊星仮面となればピネロン軍兵士を殺すことをいといません。(3話を見ると一目瞭然。)
キニスキーは、ピーターにとってはとんでもない悪人でも、地球のためなら命をも投げ出す善行者。
他、独裁とまではいえないまでも軍の強権体制を全土にひいているビッツ。体制側の御用学者でありピネロン人拘束を否定しないソクラトン。ピネロン人拘束を決めたニック。彼らは表向きは善として描かれながらも、全然真っ白ではないのです。
何の罪もないピネロン人にとっては、彼らはみな悪人。それが最終話で露呈してしまうのです。ピーター(遊星仮面)の無力さとともに。
そうしたありさまが、俯瞰的視点から淡々と描かれているのです。
残念なのは、各登場人物の綿密な心理描写にまでは至れなかったこと。
でもこれも、のちの「妖怪人間ベム」で、乗り越えられることになるのです。
私が最も足立氏の功績として評価している点の、もうひとつです。
同じように戦争を真っ向から扱っていても、同時期放映の「レインボー戦隊ロビン」、少しあとになってのモノクロ版「サイボーグ009」では、主人公たちがその流れを変えようと奮闘する姿が描かれているのに対し、「遊星仮面で」は、流れに巻き込まれる無力な群像(主人公も含む)を描くことに重点が置かれています。
遠くの目から、解決しえない悲劇、現実の闇を見つめ、それをそのままに描く。
やたら出てくる「戦争だからしかたない」といった言葉。個人の力では何もできないことが、ピーターを介して描かれています。
別次元で描かれているはずの遊星仮面も、時に物語を見つめる目を代弁します。
9話の最後で、子供たちを助けるために命を落としたステッキィーの残像を見つめる目、36話で、死にゆくキニスキーを見つめる目。
突き放したように遠くから見つめるそうした目は、眼前の出来事を裁きません。ただあるがままに物語を映し出すのです。
それは、母親を奪われたピーターの悲劇であったり。石を投げつけられ強制収容所に連行されるむこのピネロン人たちであったり。身寄りも住まいも失いホームレスとなったハーフの子供であったりと。
これがもし、ロビンや009なら、彼らを放置などしないでしょう。運命を自らで切り開こうとするはずです。
20話での薄幸なハーフの少年をあのまま放置はしないでしょう。2話でわが子を奪われた母親に、どこかで救いの手を差し伸べるはず。16話で逮捕された老人も、きっと救いにもいくはず。強制収容所で同胞を殺す武器を作らされているピネロン人たちを、絶対に救いにいくはずです。
ところが「遊星仮面」という物語では、すべてが放置されるのです。それが現実だからと。現実には結論はないと。
個人の力の無力さも、容赦なく描かれます。
地球軍は、遊星仮面の力を得ないと、戦いには勝てないのです。その遊星仮面すらも、結局は大勢を変えられなかった。
やがては最終話での、むこの人々の悲劇へとつながります。
でもその悲劇すらも、まるで素通りするかのように淡々と描かれてしまうのです。
最終話はその分きついです。大人の目で見ると、何倍ものくさびとになって私たちの心に突き刺さってきますから。
(主人公だけは、母親と会えてハッピーエンドなんですけどね。)
こうした俯瞰的視野、突き放したような描写を見たのは、私にとっては1970年から80年代の一連の富野由悠季氏の監督作品が最初でした。
あとから「遊星仮面」を見て、驚きました。
富野氏が活躍するより以前に、こういう視点から物語を描いていた人がいたのです。
それを私は、なによりも皆様にお伝えしたいのです。
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上記項目に書いた、いわゆる“物語の描き方”とは別に、あきらかに足立氏が作品にこめたメッセージがあります。
9話の解説項目で、私はこう解釈しています。
9話と31話を実際にご覧いただければわかります。これも足立氏のスタンスなのです。
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2000年代初め頃、「IMAGICAレーベル アニメシリーズ」(このサイトでは以後、IMAGICA版と記載)として、エイケン作品のいくつかが、DVD化され発売されました。
詳細については、【雑学・豆知識】ページよりこちらをご覧ください。
このシリーズからは「遊星仮面」のDVDは出ませんでしたが、その代わり「遊星少年パピイ」DVDのVol.12と13に、足立氏と庵原和夫氏との対談が遺されています。
私は購入していないため、どういう内容なのか長らく不明でしたが、2020年になって実際に視聴した方からのご証言を、X(旧ツイッター)上にていただきました。
転記の許可をいただきましたので、そこから「遊星仮面」にかかわることのごく一部を、箇条書きにしてここに記します。
足立氏と庵原和夫との対談は、Vol.12と13とに分けて、それぞれ15分ずつ。
内容の大枠:
庵原氏と足立氏の出会い/パピイを手がけるきっかけ/スポンサーからの評価/キャラクターデザインについて/原作者(井上英沖氏、吉倉正一郎氏、大倉左兎氏)について/マーチャンダイジングについて/草創期のアニメーション/DVD化への感想
足立氏は、電通の人脈で「鉄人28号」に参加。そこからTCJの仕事を受けていかれることに。
足立氏は、「鉄人28号」と「遊星少年パピイ」では、それぞれ2、3本くらい書いたのではとおっしゃっておられるが、どの話かまでの言及はない。
足立氏と庵原和夫氏とはよく組んで仕事をされていたらしい。足立氏はとても庵原氏を信頼しておられたようだ。
「遊星仮面」や「妖怪人間ベム」でも、二人三脚でお仕事をされていたようである。
足立氏は、「遊星仮面」は全部書いたのでよく覚えているとおっしゃっておられるが、詳細までは語られていない。
足立氏が庵原氏とのつながり、というか、そもそも庵原氏のことは私、まったく知りませんでした……。
インタ―ネットや『TVアニメ25年史』(アニメージュ編集部 徳間書店 1988年発行)で調べると、「鉄人28号」では「チーフディレクター」あるいは「動画演出」。「遊星少年パピイ」では「動画演出(チーフディレクター)」。「遊星仮面」についてはまったく記載はありません。
第一動画では重要な地位におられたようで、「黄金バット」では「演出」、「妖怪人間ベム」では「制作担当」となっています。
ただし当時の資料の多くが失われてしまっていますので、それだけでは記録はまったく不十分でしょう。
全体像を知ることは、残念ながら今となっては困難かもしれません。