楠高治(くすのきたかはる・本名たかじ)氏を偲んで……

「遊星仮面」のアニメ原画&キャラクターデザイン&メカニックデザイン&漫画担当 詳しくはこちら

2014年12月10日没 享年78歳


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    楠高治氏を偲んで……

    「アニメの遊星仮面のこと?僕、何も知らないよ。」

    「……はあ?」

    「僕、アニメ見てなかったから。」

    「え?あ?……あ、あの……じゃあアニメの最終回はどうなるんですか?私知りたいんですけど。」

    「だから知らないって

    「???!!!!

    1987年2月。初めて東京でお会いした時。最初の会話からブッ飛んだ。

    ともかくはぐらかすわ、皮肉を言うわ、めんどくさがるわ。

    あげく、「エイトマン」の方が面白かっただの、外部スタッフとしてアニメによりかかわった「妖怪人間ベム」の方が愛着あるわ、だの言い放つ。

    (何言ってんの?漫画を描いたのはあなたでしょ?あなたいったい……?)

    私の疑惑の視線に、さすがにマズイと感じたのか、あわててこうつぶやいた。

    「あ……あ……たしかに僕、楠だからね。」


    最初の接触は、この時より3年前、1984年のことだった。

    ある書物に載っていた住所にファンレターを出したのだ。

    返事はすぐに返ってきた。お礼の言葉と、仕事で頭がボケていることをわびる内容だった。

    再度手紙を出すが、以後2度と返事は来ず。忘れられたのだろうとあきらめてしまう。

    そして1987年。就職先でのふた月余りの研修で上京したさい、すでに知り合いとなっていたエイケン(アニメ「遊星仮面」の制作会社)の関係者の方と会った。その時、楠氏が私のことを知っていることを告げられる。

    これは……東京にいる間に会っておかなくてはいけない会わずに大阪に戻れるか

    高ぶった感情で、ほとんど脅しのような手紙を書いた。連絡してくれ、さもないと……といった内容で。

    ねらいどおり、楠氏からの電話はきた。しかし実際にお会いするや、上記のような状況だったのだ。


    しかし私が手渡した、遊星仮面に関する感想やら妄想やらを書いた文章が大ウケして、楠氏はその後も何度か会ってくださった。

    何やかんやと言いながらも、私のために数多くの資料を持ってきてくださった。(私が現在所有している、遊星仮面に関する設定資料やキャラクター商品は、この時いただいた、あるいはコピーさせていただいたものがほとんどである。)

    当時執筆されていた学研漫画の絵柄で、遊星仮面とともに、私も漫画化して描いてくださった。

    「遊星仮面」の時代からはかけ離れてしまってはいたが、ご覧のように、じつに楽しげな絵柄だ。

    1987年楠高治氏から頂いたイラスト(遊星仮面 他)

    (私が現在ツイッターで使ってる、私のプロフィール画像は、この時のイラストをもとにして私を登場させた漫画(こちらを参考に)からとっている。)


    そして、いろいろなお話を聞いた。

    大大大の手塚治虫ファンで、桑田二郎氏は敬愛していること。

    「遊星仮面」で手に入れた資金は、不動産に投資したこと。そして遊星仮面のあとは、少年誌には何も描いていないこと。

    すっかり仕事がイヤになってしまい、集英社から用意された仕事も断り、しばらく家族を置いたままひとり車で各地を放浪していたらしい。時に子供の顔が見たくなると帰ってくる、といった生活で。

    あの“第一動画”に入社したとも。しかし1日でやめたと言う。その後は外注スタッフとして「妖怪人間ベム」の演出等にかかわったとか。

    一時アダルト漫画にも手をのばしたが、子供に見られやめたとか。

    1977~78年には、手塚漫画をアメリカでひろめる活動の一環だったかどうだったか(はっきりとはわかっていないが)、事業を起こそうとして単身サンフランシスコにわたったとか。(渡米費用を稼ぐため、一時トラックに乗り運送のアルバイトなどをしていたらしい。)

    しかしそれも頓挫し帰国。しかも栄養に偏りがあったせいか、白内障になるというおまけつきで。

    その後はある人の紹介で、学研の子供向け学習漫画を手がけることになったとか。

    他にもいろいろ……。


    私はいったん大阪に帰るが、その後も何度か上京し、何度か楠氏と会い、アニメの知り合いたちを紹介したりもした。

    ワガママで傲慢ぽくてアクの強い氏の性格は、その頃にはさすがの私にもミエミエとなっていた。

    それでも、少なくとも私に対しては、この時もその後も真面目で誠実であったと思う。今以上に未熟だった私の言動にも、しっかり耐えてくださっていたのだから。

    そんななか、1988年8月、ご長男が亡くなられた……。


    しばらくは引きこもっておられた。

    連絡をとりたがっていた私に届けられたのが、遊星仮面の描かれた手紙1枚。

    こちらに掲示している。→<外部サイト:私のツイッターより>
    https://twitter.com/ohyabu/status/523401471421718528左のリンク先は外部サイト(※ 別ウインドウで開く)

    会ってくださるようになったのは、やっと翌年から。しかし精神状態はまだふつうではなかった。

    それでも、身勝手とも思い込みとも思えることをも含め、ご長男への思いを容赦なく私に吐露してくださった。

    佐渡で荼毘にふしたこと。焼いたのが一番最後で、静かな夜で星空が美しかったこと。

    引きこもっていた期間中は、夏目漱石などの小説を読みあさっていたことなども。


    そして、ようやく少し落ち着ついてこられたかと思われる頃に、同人出版社アップルBOXクリエートでの「遊星仮面」の漫画単行本出版の話が入ってきた。

    私は、話が決まってからの参加となり、一部資料を提供したり、文章を書いたりもした。

    結局1990年末から93年にかけて計5巻が発売となるのだが、その途中1991年夏に、私は大阪から首都圏へと住処を移す。執筆の仕事を探すために。

    これで楠氏とも会いやすくなった。

    しかし、いつでも会える状況になったにもかかわらず、結局ほとんど会うことはなかった。

    近くなるとかえって、険悪になることもあるのだ。

    私は、東京で働くことに失敗した。そして、楠氏には意地を張って、さようならも言わずに東京を去る。1994年の1月のことだった。

    楠氏が漫画を描くことをやめたのは、それから間もなくだったことを後に知る。

    ちょうどなじみの編集長がいなくなり、仕事がほされかけていた頃。奥様は、ご長男の死のショックからだったのだろうと言っておられたが……。


    その後14年間近く、手紙は時々送ったものの、返事は一度も返ってこなかった。

    思い切って電話をしたのは、私がこのサイトを開設するのと時期を同じくして、商業出版社から「遊星仮面」の単行本が発売されることとなった、2007年11月。

    ……電話口では泣いてしまった。

    その後のことは、サイト内に書いてある。【あとがき(更新記録)】のページ、特に2008年8月17日2009年4月2日の記事に。


    2008年か2009年かにお会いした時、私が送った書面はすべて読んでおられたことを知る。

    性格から、自分から連絡しなかっただけだったのだ。

    こんなにたまって、と指で厚さを示し、捨てるに捨てきれないんだよねと、笑っていた。

    ああこの人は、態度や言葉と、魂とはかけ離れた人なのだと、真に感じた。心が熱くなった…。


    2012年には2度上京した。1月30日と8月16、17日。これは前年11月、心臓発作で倒れられたのを12月末に知ってのことだ。

    以後毎週電話をかけるようになったが、それも2012年10月末、とりもってくださっていた奥様が病で倒れられたことで、できなくなってしまう。

    そして、奥様に続いて2014年12月に亡くなられていたことを、2015年10月末日に知る……。


    すべてはツイッターに書いてある。ただし、多くは主語を省き、誰のことともわからない書き方をしているので、検索もできずわかりずらいが。

    ご興味あれば、ツイッターをブログ化したツイログを読んでいただければと。(くわしくはこちらを。)

    2015年11月全般、2015年12月10日、それに、ハッシュタグ<#亡き楠高治へ2015年の記>と、ハッシュタグ<#楠高治20141018再UP>でしばった項目とには、私の思いが濃密に書かれてある。

    特に以下は重要である。

    <外部サイト:私のツイッターより>

    了解を得てのご逝去公表→https://twitter.com/ohyabu/status/661187099756879872左のリンク先は外部サイト

    お墓に刻まれた記→https://twitter.com/ohyabu/status/668542026418253824左のリンク先は外部サイト

    お墓に刻まれた絵→https://twitter.com/ohyabu/status/668550765414191106左のリンク先は外部サイト

    (※ 上記すべて別ウインドウで開く)


    ………………


    思い出はすべて私の頭の中にある。声の記憶とともに残っている。(私は氏の声が好きだった…。

    しかしそれらは、私の死とともに永遠に消え去ってしまう。

    しかもそれらを出力することはもはや不可能だ。たわいのない言葉だけを残しても、私の心は永遠に晴れない。

    しかし作品は違う。私が死んでも残る。これこそ楠氏のために伝えていかねばならないものだと感じている。

    私には権利こそないが、遠巻きにも。


    「遊星仮面」は、これからも守り続けていくだろう。

    学研漫画もだ。


    以下は、学研漫画 ひみつシリーズ より、楠氏の最もお気に入りの作品のひとつだった『病気のひみつ』(初版1984年)。

    『病気のひみつ』目次。

    楠高治氏作・学研漫画『病気のひみつ』の目次

    『病気のひみつ』本文より。

    楠高治氏作・学研漫画『病気のひみつ』より本文の一部
    楠高治氏作・学研漫画『病気のひみつ』より本文の一部

    これらは、デビュー当時の画風と似ている。

    デビュー作『村のかじやさん』(1955年)より。

    楠高治氏デビュー作品『村のかじやさん』より

    これが、楠氏の本当のお姿だったのだろうと思う。かわいらしくあたたかい。

    ことあるごとに手塚漫画の話をしていた、手塚治虫氏が亡くなられたことにたいへんな衝撃を受けておられた、そんな氏のオリジナルな作風が、やっと漫画人生の最後になって花開いたのだろうと私は考える。

    ただ、学研漫画を実際に読んでいたのは、私よりひとまわり下の方々。彼らのほうが私よりはくわしいだろう。私では力不足かもしれない。

    それでも私は、1987年、私を描いてくださったときの、あの楽しそうな無邪気な笑顔が忘れられないのだ。

    あの時の笑顔と、声を含んだ数々の思い出、そして氏への情愛を心の支えに、私の残る人生、氏の作品を遠巻きにも伝えていきたいと思っている。

    (2016年1月12日 記 ~17日加筆・修正)


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    永眠の地

    東京都立八柱霊園(千葉県松戸市田中新田48-2)

    ご逝去関連記事(外部サイト)

    「楠高治氏訃報」左のリンク先は外部サイト

    ←当サイトのご協力者の方が書かれた、客観的・俯瞰的視点からの記事。

    参考:お墓のある霊園へのアクセス方法(外部サイト)

    「八柱霊園交通事情」左のリンク先は外部サイト

    ←同じ方が書かれた、2015年11月時点でのアクセス事情。

    (具体的なお墓の場所については、お手数ですが、現地事務所等にて。)


    ちなみに私は、2015年11月の墓参のさいには、常磐線を使って新松戸駅まで行き、そこから武蔵野線に乗り換えるコースを選択した。

    かつて在住していた地の拠点駅だった新松戸駅を、10年ぶりに見たかったこともあってだ。

    おかげで乗り換えが多くて、霊園到着、そしてお墓到着までには少し時間がかかってしまったが。


    ………………


    東京都立八柱霊園は、たいへん広大な霊園である。

    私は2012年、ご存命だった楠ご夫妻とともに行ったのが最初。お墓の場所はメモしていたが、ご夫妻の死後ひとりで行ってたどりつけるかどうかは不安だった。

    そんな時、先行してお墓に参られ(→「小松崎茂展と八柱霊園」左のリンク先は外部サイトより)、前述の記事をUPされ、さらに直接私にお墓の場所を具体的にお教えくださったことは、たいへんありがたかったし、実際当日に役立った。

    この場を借りて、あらためて御礼申し上げる。


    霊園の場所の公開は、心ある関係者の方々による墓参を願ってのことである。

    私は大阪在住の身であり、2015年11月の墓参のさいには交通費確保のために、形見となってしまった大切な品々をいくつか手放さざるをえなかった。

    今後お墓に行くことは、現時点では困難である。

    だから私に代わって、心ある方々に参っていただければと。

    それはなにより誰より、ご本人が喜ぶはず。


    口では常に強がりばかり言い、嫌われるようなワガママばかり言い、面倒を避け、あえて孤独であろうとしていたが、魂はそれとは真逆に他者とのつながりを求めておられた。

    あなたは(遊星仮面の)アニメのファンだ、僕の漫画のファンではない、自分にはファンがいないなどと、スネたようなことをおっしゃっていたが……そんなことはないとお伝えしたいのだ。

    僕を忘れないでいてくれてありがとう、悼んでくれてありがとう、ファンでいてくれてありがとうと、きっとおっしゃるはずだと、私は確信している。

    (2016年2月18日 記)